バイト、辞めれば良かった。
僕は昨日バイトを休む決意をしたばっかなのに、皿を洗っている。
僕の働いている酒場は凄く賑わっている。路地裏でジカジカと今にも切れそうな看板のネオンを見て、忙しくなさそうで良いなと思ったのに。
店内はむせ返るような男の熱気と、葉っぱが焦げた匂いで充満している。
喧嘩が起きたら店が壊れて、警察を呼んでも店が壊れる。僕の仕事は掃除と皿洗いだ。
それもこれも店長のせいだ。
こんなに忙しいのにカウンターで入れ墨の巨漢とお喋りしてやがる。
昨晩バイトを休む事を店長にいうとすごい剣幕で叱られた。
僕より少しだけチビのくせに怖すぎて吐くかと思った。殴り合いになればと思い、ちょっとだけスネを蹴ってみたらもうちょっと吐きそうになるくらいヒートアップしたので思わず土下座した。
全く惨めすぎる人生だった。
店内のボリュームが上がる。ヒートアップした男達に観衆が騒ぐ。
皿洗いを終えた僕は、フキン、チリトリ箒を準備した。
あああ、慣れって嫌だ。喧嘩が起こるって分かったからなんだ。
なんで僕が後始末しなきゃならない?お前らが汚したんだからお前らが片付けるべきだろう。
でもなぁ、僕の身長はせいぜい170あるかないかだけど今掴み合っている男の体格は二人とも、全盛期のボブ・サップのような体型をしている。
うーん。と悩んだ後、やっぱり箒を手に持った。
おい、と雑に店長に声を掛けられた。
「止めて来い」だって。
「一応行くけど僕じゃ無理ですよ。」
「さっさと行け!タコガキッ!」
店長はチビのくせに口が悪い。
「え!タコガキ!?今まで一つも止められた喧嘩なんて無かったのに、僕を行かせるなんて諦めてる様なものでしょう?」
言ってやったぞ。お前を言い負かす妄想なんて千回以上してるんだこっちは。僕に口喧嘩で勝てると思うなよ!
ふぅ、と一つため息をついた店長は僕に言い放った。
「家賃は、食費は、光熱費は!」
そう、僕は店長が使っていない部屋を借りて居候をしていた。地下へ来た時に路頭に迷っていた僕を匿ってくれた時は、天使かと思った。チビでハゲの天使もいるのかと思ったけど、今は悪魔にしか見えない。
ああ、神様。この悪魔をぶち殺す勇気を私にください。出来れば圧倒的に打ちのめすパワーと確実な殺しの技術もください。
地下からの悲痛な願いは天まで届くわけもなく、僕はケンカを止めに行くハメとなった。
カウンターから出て二人の大男に近寄る。デカ!
「あ、喧嘩は外でー」
二人の視線がこちらに向いた。
「あっ、やっぱり店内でやった方が良いと僕は思う!店長はそうじゃないみたいだけど!」
怖!店長、僕には無理だ!すまん!
身体をカウンターに滑り込ませる。
「バジ!テメエなにしに行ったんだ!」
「コップはさげてきました、洗います!」
無能じゃない僕は空いたグラスを下げてきていた。スポンジに洗剤を滲ませ、隅々まで磨く。
グラスを磨いてる間は僕の身は安全なんだ。これは僕の仕事だ、誰も僕がグラスを磨くのを邪魔するな。
磨き終えたグラスを磨いて、そのグラスをまた磨く。片付ける・・・フェイントを一つ入れてもう一磨き。
「お前はいったい何の役に立つんだバジィ!」
「僕にもわかりません!」
店長がキレた。店内は今にも火蓋を切ろうとする大男二人にヒートアップしている。
「お前は無能で嘘つきでしょうもないガキだ!そんなお前を雇ってやってんのは誰だと思ってんだ!」
「でも安月給だ!」
「お前が週2しか入らねえからだろうが!」
「用事があるんだ!」
「フリーターだろテメエは!」
僕はグラスを磨いている。頼む、一人にしてくれ!
目の前でジャージャーと流れる水に涙が一粒零れた。
「行けぇええ!!!殺せぇええ!!!」
始まってしまう。僕は、駄目だ。僕は変われないから飼われないと生きていけないんだ!
「そんなの嫌、あなたが殺すのよ!」
「分かった!」
体が動いた。顔を殴った。僕の拳が意外にも硬い店長の顔面をぶん殴ったんだ!
喧嘩を始めたのは僕だ!これは凄いことだ!
向こうでも同じく喧嘩が始まった。こっちとは違って派手に血が舞っていて、なんというか高揚した。
「え、お前らも?」
カウンターの入れ墨が物音に慌てて振り向くと、倒れた店長と、僕を交互に見て言った。
「バジィ、テメエ。やりやがったな。」
店長が起き上がろうとしていた!
「起きたら撃つ!」
しまった、銃なんて持っていないのにテンパった。入れ墨が笑うが構ってる暇は無かった。僕はそのまま店長に馬乗りになって殴る。
歓声のほとんどが僕に送られたものではないが、それでも僕のアドレナリンをかきだし、血液を沸騰させた。
「良くも、俺をこき使って、くれたな!俺は、お前の、マリオネット、じゃない!」
僕は殴りながら吐くように言う。人を殴るって事がこんなに疲れるということを、僕は知らなかった。
「操り人形でよくね?」
入れ墨は喧嘩に慣れたもんで冷静を極めていた。
「うるせえ!」
急に恥ずかしくなった僕はぐったりとした店長の顔面を蹴っ飛ばした後、バックルームに戻った。
プチプチと制服のシャツのボタンを外しながら電話で警察に電話した。
「喧嘩です、すぐに来てください。」
受話器を置いたあと、なんとなく店長のスマートフォンを叩き割った。
自前のパーカーに着替えながら机の上に置いてあったシフト表を裏に向け「やめます。給料は財布からいただきました。」と書き置いたあと、財布から現金を全て抜き取り、パーカーのポッケに突っ込んだ。
バックヤードから血しぶきが舞い散るフロアに戻る。こんな恐ろしい職場ともおさらばだ。
カウンターのスイングドアを開くと、「ハジ、やめんのかい?」と入れ墨が聞いてきた。
「ええ、店長怖いんで。」
僕はそう客に言い残し去ろうとしたその時。
「バジィ、お前人殴った事ねえだろ。」
「店長!僕は・・・!」人を殴った事なんて人生で一度もありません!本当にすみませんでした!
言い終える前に僕の身体は空中に投げ出された。チビなくせに店長は強かったんだ。
喧嘩になれば勝てると思ってたのに、喧嘩になっても店長には勝てなかった。
僕の身体は盛り上がった客の酒が並ぶテーブルに突っ込んであらゆる酒を頭から被った。
僕は朦朧とする意識の中バックヤードに連れ込まれた。どうやら説教を食らうらしい。バレたら殺される。
「俺のスマホが!バジテメエ、それにやめますってどう言う事だ!」
「だって・・・」
店長が、それに店長殴って続けられないですよ。
僕は泣くのを我慢するのに精一杯で、言葉を続けられなかった。
お店一つ辞められない、店長一人ぶっ殺せない自分が嫌だった。
「バジよぉ、何が嫌なんだ?ここで働いてりゃ金には困らねえし、宿も提供してる。格安でだ。出てったってテメエにゃ何一つできねえだろう?」
店長の最もな言い分に言葉を失った。
「ケンカだって日常茶飯事だろ?いつまでもビビってたらこの街じゃ暮らしていけねえぜ?」
「店長、すみませんでした・・・」
「いや、俺もだ。さっきは言い過ぎたな。」
「僕も気持ちよくなっちゃって殴り過ぎました。」
「ああ、殴り足りたか?」
「いえ、もっとコテンパンにしとけば良かったと思いました。」
「そうか・・・」
「はい・・・」
店長と少しだけ気まずくなっていると、ドタドタと店内が騒がしい。
ああ、警察か。と僕は思ったが店長は様子がつかめていないようだ。
僕が説明をすると、店長が「何ぃ!」と目を見開きカウンターに戻った。
僕も急ぎカウンターに戻り店長に訪ねた。
「今日は何かあるんですか?」
「ああ、オメェには説明してなかったな。」
店長の顔が引きつっている。どうしたのだろうか。
「今日の客は、地下プロレスの試合終わりに打ち上げに来た団体なんだ。」
「それが何か?」
「うちの店には違法も合法もねえ。腹に一物抱えた連中がここで騒ぐって訳だ。こいつらが捕まってみろ。芋づる式で業界の闇がわんさか出てくるだろうな。」
「つまり?」
「つまり、警察に通報したお前と店主の俺は団体からの報復を食らっちまうって訳だ。」
「嘘だろ!」
「バジィ、やってくれたな。」
「だっていつも通りに僕、僕は!」
「俺に一言言ってから・・・まあいい。行くぞ!」
店長は頭を掻きむしりながらバックヤードに戻る。
「どこへ!」
「どっかだ!」
バックヤードのマンホールを開くとそこの見えないハシゴが伸びていた。
僕は店長に続いて中に入り、マンホールをガラガラと閉めた。